小説「紙の月」を読んだ

年に何回か海外出張に行くのだけれど、移動の飛行機内が超絶暇になるのでいつも本を持っていくことにしてる。今回はこの「紙の月」を読んだ。

あらすじは簡単に言えば人妻が若い男と浮気をして横領して貢ぐって言う話。ただ、人生が転落していくきっかけでヒロインが全能感を感じるって言う描写があり、全能感って麻薬みたいに人を変えてしまうんだなとまた実感。

感想サイトなどを見て廻っていると特に女性はこのヒロインの気持ちがよく分かるって書いてて、ああいう突然の大きな変化について女性は心当たりがあるんだなと思うと怖くなった。

長年の付き合いとか歴史とか、そういうものの積み重ねを無にして一気に変わってしまう人。俺は年を取ってしまったせいか、そういう大きな変化が怖い。特にその原因が理解できないのは恐ろしくてしょうがない。

人はただ単に年を取ることは誰でも出来るけれど、正しく生きながら年を取っていくと言うことが本当にとても難しいと感じてる。苦闘と苦難の道だ。

何だか最近は自分で自分の心を縛り付けるようなことばかりやってるような気がしてる。いつか脱却できるのだろうか。

全能感が人を鬼畜にする

神戸で起きた教員によるいじめの考察記事。あまりに興味深かったのでこの著者の本も借りて読んだ。

他の人に経験があるかどうかは知らないが、学生時代、一対一で会うと友好的な友人が2人以上つるむと意地悪になったり、或いは人が変わったように悪意に満ちたりするのがどうにも理解できなかった。だけど、上記の本を読んで納得がいった。結局全能感と言う皆に備わっている麻薬のスイッチがどこかで入ると人はそういう残酷なことを始める。

この人の本では「寄生される」と言う表現で、その人のモードが変わることを説明していた。俺は「汚染される」と言う感覚だが、言っていることは同じ。

特に自分に対して好意を持っていたりする相手をいたぶると自分の影響力を実感して全能感の虜になってしまうんだろうな。

子どもの頃は、確かに虫とかに残酷な仕打ちをして全能感を得たりするし、あまり努力をしなくても俺は物事を達成できる、と言う勘違いを起こす。

でも育っていくうちにそうじゃない、全能感を得るには正当な努力が必要だし、努力をすればするほど益々努力が必要なことを理解し、全能感から遠ざかっていく。

そこをショートカットして全能感は心に眠らせたまま、場の雰囲気をコントロールしたり、もしくは誰かが醸成した雰囲気に合わせることが得意になってしまうと暴走してしまうのだろう。

続くもやもやの正体

ずっと最近もやもやが続いている。外的要因としては少なくとも表面上は特に問題なく穏やかな日々が続いている。

やっぱり心理的に無理しているところがあるのか。ここ最近は誰からも愛されてなくても愛を返さないといけない、人としての生きる道はやっぱりみんなから昔から支持されている王道の考え方で行きたい、と思って心がけるようにしてる。

だけどそんなことに疲れてしまったのかも知れない。全てを愛すると言うことは愛されるということを放棄することで、それってとても孤独なことじゃないかと思ったりする。(ここで言う愛は恋愛感情とかじゃなくて親愛とかそういう意味)

歳を取ると言うことはホントに今までにない新たな局面に入り、しかもそれに適応するには自ら率先して変わっていくことを心掛けないといけない。

世に溢れるマナーの悪いオッサン、人の気持ちを理解しようとしないオッサン、そんなオッサンになりたくない一心でやってる。

ホントにまともに歳を取っていくと言うことはこんなに難しいことなのか。それか元々俺は心がイビツな形なので今更正常な形に戻すことが大変なのか。

はぁ、自分で心がイビツとか言ってしまうところがまた中二病と言うか、俺は他人とはちょっと違う感だしてるみたいなのもやだな。

「マチネの終わりに」を観てきた

独りで何もせずにいると煮詰まってしまうので、平日とは言うものの映画見てきた。緩い邦画がいいなと思ってたら上記映画をレイトショーでやっていたので観た。確かTVでも宣伝よくやってたよなーと思いながら。

感想だけど、未だにこういう80年代トレンディドラマみたいなのやってんだなと思った。石田ゆり子が演じるヒロインは海外で活躍する国際ジャーナリスト、婚約相手は金もうけが得意な経済学者、そこへ福山雅治演じる世界的に有名なギタリスト。ロケ場所もヨーロッパの各地からニューヨークまで。なぜかアジアとかアフリカは無いのね。

もうね、舞台設定の非現実感が凄い。異世界転生ものみたいな現実感のなさ。ていうか中高年女性向けの異世界転生ものがこういう80年代トレンディドラマ風味なのかもしれない。

ツッコミどころも満載だけれど、一番納得いかなかったのはギタリストの師匠が倒れるタイミングが何で石田ゆり子と会う日なの。そしてなぜかタイミングよくスマホをタクシー内に忘れる福山雅治。いや、それだけ会いたかったら連絡ツールのスマホ絶対忘れないよね。

そしてマネージャーの策略にはまり、別れる感じになって翌日の電話のやり取り。お互い違う意図を持って話してるけどなぜか会話が通じてるって、それ見ながら「あ、俺こういうの見たことある。エンタの神様に出てたアンジャッシュのネタだね」とマジ引いてしまった。

他にも石田ゆり子の同僚(外国人)が負傷して石田ゆり子の家にいて、なぜかそこに福山雅治呼んでキスとか始まるし、いや、この場の主人公は負傷した友人だろ、これが噂の不倫脳か、とか思っちゃったよ。

でもね、こういう一連のやり取り見ながら、80年代からもう40年近く経ってまだこんなことやってるのはある意味伝統芸能なんじゃないかって。

ジャパニーズスタイル恋愛ドラマ。無駄に海外でリッチでお洒落な生活と、ハイスペックな主人公と登場人物、そして有り得ないタイミングが頻繁に起きて事件勃発。

ただ、マネージャー役の女優さんの演技が凄くて、(今調べた桜井ユキっていう女優)その人の演技でかなり印象は好転した。あと、福山雅治の最後のシーンの表情も、いやーうまいなーと感心。石田ゆり子はイマイチ顔からは感情が読み取りづらかったけど、桜井ユキとの食事シーン(嘘を告白するシーン)の演技は女性同士の戦いと言うか感情のやり取りが面白かった。なんつーか会話だけであそこまで鍔迫り合いできるのは女性ならでは。

最終的な評価としては、まあそういう周辺設定には疑問多かったけど、桜井ユキの演技がとてもよくてそれでプラスな評価。つーか桜井ユキ視点で映画作った方が面白かったような気もする、それぐらい桜井ユキ推しになった映画でした。

黒い炎が消えない

黒い炎でも書いたが、ずっと裏切りとか犯罪とかの心を締め付けられるような話ばかりを見てしまう。何かの依存症なのか?夜も眠れずにずっとそんなサイトばかり廻ってる。心が締め付けられるような思いをしながらまた次の似たようなストーリーを探しに行く。

日常も何だかそんな風に侵食されてきてて、街で見かける人々もみんなそんなどす黒い心を持ってんのかな…なんて言うまさに中二病患者になってる。

誰かのピュアな思いが無碍にされていくストーリーがとてもやるせないのになぜかそこから離れられない。例えばとても好きな異性がいるけどそいつは人でなしで最終、命を失っても報われないみたいな絶望しかないストーリー。

もうホントヤバイ。何が原因なんだ。私生活も仕事も特に問題が無いのに。きっと心の中に何か問題があるんだ。それが何なのか。何かが失われる恐怖に怯え、予行演習をしているのか。

そんなこともあり、日中は外をなるべく出歩き、運動もするようにした。だけど気がついたらそんなサイトばかり見て心を自ら疲弊させることばかりやってる。

無口なメッセージを頂きました

日曜日にメールフォームでアドレスを送ってくれた方へ。本当にありがとうございます。きっとこれはあなたにとってとても大切な場所なんだろうと10年を超えるあなたのエントリを見て感じました。それを教えて頂ける幸せを感じました。

それとともに、アドレスとパスワードだけを送ってきたそのメッセージが、俺に取ってはこれ以上なくあなたの思いが伝わってきたような気がしました。このタイミングで、あのブログのアドレスを俺に送ってくるのは奇跡に近いほど、思いが伝わってきた気がしました。今はもう以前の若い時ほど、無邪気にそれを信じられないかもしれないけど、今はそんなことどうでもよく信じても良いと思った。

俺はこういう人が読者にいてくれるって10年以上俺もこのブログやっててホントに良かったと思いました。きっと俺はこういう読者を求めて書いていたのかも知れない。

年齢を重ねるにつれ、心に思ったことをそのまま出すことに躊躇していくけれども、でも逆に沈黙で伝わる言葉もある。それがもしかしたら歳を重ねることで得た新たなコミュニケーションかも知れないって思った。

返事を早く書こうと思っていたけれど、頂いたメッセージ程うまく伝えることがどうしても出来ません。

本当にありがとうございます。

黒い炎

ここ最近ドス黒い何かが心の中にずっとある。犯罪物の本を読んだり、ネットで愛憎劇など読んで、心が凹んだりやるせない思いになっている。それを何故か止められない。

何度もここで書いているけど、色んなことを失っていくこの先を考えると、諦めの気持ちとともに、理屈や常識を破って獣のように生きたいと願っているのかもしれない。若い時に色々とやっておけばよかったのだろうけど、こじんまりした人生を送ってきて、いざもう昔のように何でもできる状態じゃないって思い知らされると、失ったものだけを渇望するようになる。俺はずっと昔からそういえばそうだった。

そんなところばかり見ながら、昔のふとしたことを思い出す。

俺は両親が離婚し、それぞれが再婚してそれぞれが新しい家庭をもってる。離婚したときに俺は母親についたのだけれど、再婚で新しい男(現夫)に行くとき、俺が付いてこなくても私は新しい男と結婚する、と言ってた。

結局俺はそのまま母親について行ったのだけれど、その後その二人の間には子供ができた。そして俺の生みの父親も新しい家庭を持っていた。

俺だけがどっちつかずの、どちらの家庭からも浮いているような存在だったことをなぜか思い出した。

思えば、50手前の現時点でも家族(妻と子ども)はいるけれど、友人と言える人は全くいない。家族ももう俺にはついてこなくて、独りで行動することがとても多い。取引先の人に何気なく「あなたは結婚に向いてなさそうな気がする」と言われて、はっとした。確かにそうなのかもしれない。

俺の周りに人がいないのをもう人のせいにできる歳ではない。それは俺が求めた結果なのだ。それを受けて入れてく作業をずっとしてる。

家族もいつか去っていくのだろうか。俺の母親のように、いつか引導を渡してくるのか、もしくは俺が引導を渡してしまうのか。

きっと俺以上に孤独で、独りで生きている人がどこかにいる。彼らに救いはもたらされるのか。きっともたらされない。自分から求めて、他人を救済したとしても、もたらされることはない。

でも俺たちは救済を廻りに与え続ける必要があるんだ、きっと。あとに続く人たちが、俺みたいにならないように。

きっと。

「家族喰い」を読んで思ったこと

尼崎連続変死事件の本。こんなに読み進めるのがつらい本は初めて。とにかく角田美代子のやり口が酷すぎて、何ページか読むと気分が悪くなって休憩を取らないと読み進められない。

北九州連続殺人事件の松永太もそうだったが、とにかく誰か一人を奴隷状態に置き、それを橋頭保に他の家族にも侵食し、勢力を拡大していく。養子縁組などで家族としてしまえば、警察も民事不介入と言う言葉を盾に相手にしてくれなくなる。

この事件でも、何度も被害者は警察に駆け込んでいるのに民事不介入と言って対応しない。

関西の警察の印象は俺も悪い。以前、友人の結婚式に警察関係者が出席していたが、新婦の友人にセクハラ発言を浴びせつけて非常に不愉快だった。

実は俺の仕事関係でもこういうサイコパスがいた。彼は角田美代子とか松永太と同じやり口を使ってた。俺の家族をやたら紹介しろと言い、長時間の拘束で判断力を低下させて自分の意思を通す。しかもはっきりと意見を述べず、それとなく空気を読ませるような言動で自分の意思を表示してくる。

俺は犯罪物の本を結構読んでいたので、このやり口はサイコパス特有だなと気づき、すぐにその場から立ち去ったが、残された真面目な連中は洗脳されつつあったな。朝まででも拘束する話っぷりだったが、速攻引き揚げた。

人間って生まれた時は感情のみで動いているけど、成長するにつれ、理性を獲得し、理性に従って生きる。

だけれども、50手前の年になって周りを見渡すと、自分の欲望のために理性を使っている、欲望と言う目的を達成する手段に理性は成り下がっていることを感じる。

結局、世の中は欲望で駆動していて、その表面を薄く理性と言うものが覆っているだけなんだ。

この社会は、一見理性(法律とか、モラルなど)で動いているように見えるけど、そこで縛れる人間の行動はほんの少しで、後は欲望が支配してる。この世の中をうまく生きるには、一見理性で動いているように見せかけて、実はどす黒い欲望と言う強力なエンジンで前に進むことかもしれない。

角田美代子も松永太も、超強力なエンジンを持っていて、そして他人も家族化し、弱みを握り弱らせていくと言う手段を得てここまでの非人間的な行為まで行ってしまったのだろう。非人間的と言うか、むしろ非常に人間らしい行動なのかもしれない。

「つけびの村」を読んだ

俺は犯罪関係の読み物が好きだ。実生活でも役立つから。普通の人と犯罪を犯す人とは同一線上にあり、本人の素質と環境で犯罪まで行ってしまう。世の中には本人の素質的にヤバイのもいれば、環境的に犯罪まで追いやられることもある。両方を知っておけば、もしそんな人に巻き込まれる状況や、環境になったとしても「これはヤバイ」と理解できる。「知っておく」と言うことは自分を客観視するのに必要なこと。

今回の本は以前、noteで話題になっていたのだけれど、俺はnoteのうさんくささが大嫌いで、課金は絶対しないぞと思っていたら書籍化が決まったと言うことで速攻予約してようやく入手。

よくある犯罪物の読み物とは違い、地域の文化や住人の細かい描写があり、何だかいつもと違うなと思っていたら敢えてそう書かなかったと言う記載があり、納得。

特に住人たちの描写が細かく書いており、閉鎖された村社会の雰囲気が良く伝わってくる。

俺も仕事柄、日本中の田舎を廻るのだけれど、田舎は人間関係が固定化していて、子供の時の無茶(他人を傷つけたり、人のモノを盗んだり)が大人になっても許されたり、法律に照らし合わせると犯罪行為であっても赤ちゃんの頃から知っている人たちばかりなので許容されたりする。

俺もある漁師町で飲んでた時に話したオッサンが知り合いと喧嘩して重傷を負わせたみたいなことを言ってたが、その地域の警察含めて不問にしてくれたみたいな話を聞いて、皆が皆を知っているだけに家族的な甘えで処理されてしまうのだろう。

大体田舎の人の人生(飲み屋でしか聞かないのでかなり偏っているとは思うが)は、若くして結婚、夫は農業とか漁師とか工場勤め、できちゃった婚で子供が生まれるも離婚、女性は良い稼ぎを求めて水商売へ。男性は昼間、仕事で稼いだお金で夜のお店へ。でもみんな顔見知りなので普通の人はあんまり無茶もできない、みたいな感じか。

なんせスナックに行ったら友達の姉妹とか同級生とかが出てくるらしくて、あんまり変なことするとすぐに噂になるらしい。

この「つけびの村」に出てくる犯人も、東京で暮らしている時は周りの人々の評判も良かったのに、濃密な人間関係の中で逃げ場所を失い、追い込まれてしまったのだろう。もちろん、周りの人が全て悪いのではなくて、本人の資質もあるだろうけど。

以前、上の記事でも似たようなことを書いたけれど、回りから少しずつ自分を追い詰める欠片をもらい、蓄積してしまったのだろうな。

見たくないものは見ない機能がついていく

周りの同僚や上司を見ると、「それは嫌われるだろう」「それは問題だな」と言う行動をする人が結構いる。一般論で言っても他人を不愉快にさせるのはオジサンが多い。

はたから見ていると分かりやすいのに、なぜ本人はそれに気が付かないのか。それは自動でそういう嫌なことをスキップする能力が知らず知らずのうちに身についてしまうからだ、と気づいた。

赤ちゃんのうちは歩くことすら大変だったのに、大人になれば喋りながらとかスマホイジリながら歩くのは苦もないこと。同じように、聞きたくないことや見たくない、自分にとって厳しい指摘とかは自動で削除してしまう機能がついてしまうんだろう。

当然俺にもそんな機能が備わっていて、今まで聞こえていた、見えていたけど認識しないようになっていたんだ。でも、最近ちょっと心の余裕が出来たことと、本を読んだりして改めて気づかされることがあった。

それは実は将来的にまた俺が独りぼっちになる可能性を示唆している出来事だった。若い時ならそれを回避するために頑張ったのだろうけど、歳を取ったせいか、流れに逆らうより流れに乗る方が良いと考えてしまう。

長い人生の中で、いつまでも同じ場所に一瞬たりとも留まっていられない、良いことも悪いこともどんどん流れてきて、そして流されてしまう。

年の取り方は人さまざまだけど、俺が感じる年を取るとは大切なものを徐々に失っていくことだと思われてしょうがない。

そしてそれも、もがいたりせずに受け入れなくちゃ、と思ってしまう。