透明な存在も無敵な人も

また無差別殺人が起きて、無敵の人が話題になる。TVはますます規制を厳しくして、不審者を取り締まれと叫ぶ。

20代の頃に、社会に敵意しかもっていない時期があった。知り合いが誰もいない場所で仕事とアパートの往復しかない毎日。休みの日でも、しゃべる相手もいなくて友達もいない、何もない週末。

なぜ俺だけがこんな目に合うのか。周りの人々、道行く人々、みんな楽しそう。そのうち、周りの風景はTVの向こう側のように現実感が無くなってくる。あの少年が言っていた「透明な存在」が理解できる。俺は誰にも見えない透明な存在だった。

孤独は人を追い詰めていく。距離を詰めようにも詰め方が分からない、距離を詰めて拒絶されたらどうしよう。俺は孤独に生きると決めて自分から敢えて人間関係を切っていく。

しかし、結局は挫折する。人は孤独では生きられない。

無敵の人を否定し、拒絶する。それはもしかしたらあなたの親族かも知れない、子供かも知れない。それでも俺たちは無敵の人を拒絶するのか。それが真実の解決法なのか。

キモくて金のないオッサンは誰にも見えていない。見えているけど認識されない。

でも、こうも思う。オッサンもオバサンも男女関係なく人は年を取れば変化していかなくてはいけない。誰かに愛された子供時代はとうに過ぎ去り、今度は愛する番。例え誰にも愛されなくても、誰にも愛されない人を愛さなければいけない。誰かが背負っていた義務を今度は俺たちが背負わなければいけない。誰もそんなことは教えてくれない。学校も職場もTVも新聞もネットも。

無敵の人を拒絶する人たちも、誰かが背負うべき義務を拒否してる。そういう人たちを遠ざけるべきではない。

何も失うものが無い人は、同じ人を助けられるはず。自分と同じ境遇の人がいることを知るだけで、少しは心休まるはず。