苦痛の山を越えるのはコスパ悪い

多分、これは自分を誰かと区別された特別な人間として見られることが苦痛と言っているのだろうけど、いやいや、皆さんネット界では他人とは違うことに精を出す優越感ゲームに絶賛参加中じゃん。

仮想世界で他人と張り合って疲れたのでリアル世界では匿名で扱ってほしいって何だかおかしなことになってる。なんでリアル世界で個性を持った一人の人間として扱われて嫌な気がするんだろう。

こういうのって慣れだと思う。最初は苦痛でも何回も繰り返していると慣れてきて、最後のその行動が完全自動化されて薄い知合いとの会話も何も考えなくても対応できるようになる。その最先端を走っているのがオバサマ方。あれ、話しかけてるけど人の話は聞いてないからね。まあ、オジサンも一緒か。

世の中のことって苦痛でもしばらくやってみないとその素晴らしさが分からないことがある。途中の苦痛の山を越えていかないとその先の遥かに広がる新世界が見られないと言うか。

今はそういう苦痛の山を越えていくこと自体、コスパが悪いと思われてる。また、苦痛の山を越えなくても周りには魅力的で平坦な世界が一杯広がっているから敢えて苦痛の山を越える必要はないと感じるんだろうな。

人生においても、最近は働き方改革とかで残業も禁止、きつい言葉も禁止になってる。もちろん、人を死に追いやるような行き過ぎは問題だと思うけど、期間限定で忙しいとか、緊張感のある仕事とかも必要だし、そういうことが人を成長させていく。

最近の若い人を見てると覇気があんまりないし、指導とか助言も冗談でかわされることが多くて、大丈夫かと思う。そういう人って年の割には発言が幼くて、たまに見てるこちらが恥かしくなる時がある。

一生、苦痛の山を越えていく機会の無い人生なら苦痛の山なんか越える必要はないかもしれないけど、若い時ずっと平坦な人生で後半で苦痛の山に当たると大変。

それに、やっぱりある程度苦労した方が人の気持ちが理解できる。俺の知合いに楽して今まで生きてきたと思われる人がいるけど、そういう人に限って俺は凄く苦労したって言うんだよな。そして他の人を馬鹿にする。

本当に苦労した人は、苦労したことを誰にも言わなくて、そして明るいんだよな。だから苦労してない人に馬鹿にされてるけど、はたから見てるとその明るい苦労人を馬鹿にしてるそいつが馬鹿に見えるんだよな。