生ける屍の結末: 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相を読みなおす。その中で「両親や育成環境に責任転嫁して、心の平衡を保つ精神的勝利法」と書いてあって、ああ、何となくわかるなと思った。
灰色の世界にいるより、真っ暗な世界が生きやすい。絶望と希望の入り混じった世界より、絶望だけの世界の方が住みやすい。全ての他のせいにして、精神的に引きこもった方が生きやすい。
人は言っていることが正しいとは限らない。自分で自分の気持ちを言っているつもりが、本心はそうではない。死にたいという人は生きたいし、人を遠ざける発言ばかりしている人は本当は人にもっと近くに来て欲しい。
でもそういう希望を持ちながら生きていくことが、とても苦しい。苦しすぎて、息をするのもきつくなってくるなら、いっそのこともう全てを諦めて生きた方が楽になると思い始める。
誰かと繋がりたいけど、今や他人の時間も争奪戦。サブスクで提供されるサービス、SNSでは世界中の人と繋がり、マッチングアプリで世界中の人と競争。身近な知合いや友人の時間を消費させるのも気がひけるし、俺にそんな価値があるのかと疑問を持つ。
争奪戦に参加している人々は、秒単位でキャラ変換。そこに継続的な人間性はなく、刹那刹那で切り替えていく。タブブラウザを切り替えるように、凄惨な事故ニュースの後にグルメ情報が来るように。
時間と言う概念が無く、ただただ切り替えていくキャラクター。それでみんな生きやすくなったの?本当の自分探しで終着駅に辿り着けたの?
実際には、今までローカルでしか比較されなかった人々は、フラット化した世界でグローバルな土俵の上で序列化されるようになった。なかなか努力しても序列の上に上がれず、気を抜くとすぐに脱落していく。
そんな中で、彼の言う負け組未満、そもそも負け組に入るために努力をしないと言うのは、非常にコストパフォーマンスの良い戦略かも知れない。と言うことは、無敵の人はこれからも増え続ける。フラット化した土俵に乗ること自体を止めてしまった方が楽だから。