錯覚にすがり今日を生きていく

街で店に入れば、店員があたかも非常に親密な間柄かのように接してくれる。「あなたのために」個人的にもてなしてしてくれている様子を模擬している。でも、期待された枠組みを外れて個人的関係を求めたら、きょとんとしながら「お客様、」と言われてしまうでしょう。私たちはそういう、虚構としての親密さのなかで振る舞うことにすっかり慣れてしまいました。何が起こるか予測できない個人商店からはなんとなく足が遠のくようになってしまいました。心が通うことよりも、心が通ったかのような錯覚を安全に得られる方を好んでいるのです

ああ、俺のことだなと思った。でも年を取って思うのだけれど、「錯覚」であってもそれにすがらないと一日が終わらないほどに孤独なんだ。

若い時は、この先にもっと心と心が触れ合うことがあるだろう、と言う期待を持ってる。だけど、歳を取っていけばいくほど、少なくとも外見上の魅力は衰えてくる。人との共感能力も落ちてくる。つまり、この先に今まで以上の心の触れ合いは期待できないとうすうす感づいてくる。

更には、家族であっても子供は独立し、配偶者は俺より先に旅立ってしまうかも知れない。最後の時は独りであることを覚悟すべき。以前見た孤独老人のTVで、インタビュアーが老人に「最後に何をしたいですか?」と言う問いに「家族でご飯を食べたい」と回答していて、ああ、今では当たり前のそれが遠い先ではどうにも手に入らない出来事になってしまうんだなと強く感じた。

他の人がどうかは知らないけど、俺は10代後半くらいからずっと孤独と戦ってて、20代後半で孤独には勝てない、共存すべきと悟った。最近は、炭酸飲料の中の泡のように、自分と孤独が一体化しているような感じになってる。孤独もまた自分の一部なんだと。

だけどその泡は体が老いていくうちに苦痛の原因になっていく。そんな時に心の通ったような錯覚でもあれば、少なくともその日寝るまでは痛みは多少和らぐんだ。

俺が今でも覚えてる心の通った錯覚は、居酒屋で独り酒を飲んでいて、コップが空になった時、店員が何も言わず、お替りを継いでくれた時。

少しだけ、見ず知らずの俺に興味を持ってくれて、俺の気持ちを理解してくれたと錯覚させられたとき。おそらく店員は単純に店のもうけか、メンドクサイから継いだのだろうけど、それでもその幻想も思い出となり、生きる糧の小さな欠片になってる。