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海水を飲みすぎるより暗闇に紛れるべきか

2010 11day @715Beat

今年に入ってから、自分のブログはもっと色んな人に読んでもらわないと、と思って、テキスト庵に参加したり、ブログを読みやすくするためにlink要素をheadに入れたり、microformatsに対応させたりしてる。読んでもらってツマラナイ、と言うことでスルーされるのは一向に構わないけど、まずは読んでもらわないと、と思ってる。

誰かに読んでもらう、と言うことについて、tumblr上でブログを運営する強みはreblogだ。どんどん俺の書いた記事がreblogされて、俺の全く知らない場所まで拡散していく。そこで知らない誰かに読んでもらえる。こういうことを考えると、俺は未だに思い出す記事がある。長いけど引用する。

たとえばRead Me!や日記才人の一票のような、きわめて間接的で淡々としたコミュニケーション。日々誰に向けているのでもないテキストを淡々と書き、そしてどこかにそれを読んでくれる読み手がいる、ということに心を癒され、直接感想メールが来たりすると、かすかな苛立ちを感じずにはいられないような、そんな「コミュニケーション」。

それは、アメリカ人からすればコミュニケーションの名にすら値しないようなものなのかもしれないのだけど、「それはどこか宇宙の果ての知らない星からの長距離電話」(谷山浩子「銀河通信」)であり、「誰でもない他者」からの「あなたがここにいること」への承認のメッセージなのだ。だからこそ、誰が読んでいるかはわからないけれど、「もしもし見知らぬ私の友達 私はちゃんと歩いています」(同上)と日記を書くのである。細い、細い糸で結ばれたような儚いコミュニケーション。そもそもウェブ日記にとってもっとも重要だったのは、そうしたコミュニケーションだったように思うのである。

そしてまた、ウェブログに限らず最近のウェブの世界は光が明るくなりすぎて、沈黙、夜の闇といった、儚いコミュニケーションを受け入れる土壌が急速に失われているような気がする。真夜中ひとりで黙っていないと、銀河通信は届かない。

既にブログが一般化して約7年くらい?だけど、結果的に明るいと思っていたブログ界隈でも、実は考えていたほどブログ界隈は明るくなかった。俺はどんどんコミュニケートを求めてるのか。それとも海水を飲むようなコミュニケーションに巻き込まれているのか。

絶えずアウトプットしていない限り、その場に存在できない、人間関係を保ち続けられないとしたら、メールという通信手段が孤独感を充足させているとは言い難い。むしろ反対に、通信が速く簡易になればなるほど孤独感の渇きが酷くなっていくというパラドックスが生じている。

メールと言う通信手段をブログ更新や運営と置き換えてもイイ。それを絶えず行っていないとネット上に存在している気がしないのか。結局明るい場所を求めれば求めるほど、更に明るい場所に行きたくなる、と言うジレンマに入ってるんだ。今はツールが発達して、求めればどんどんネットツールは更新できる。だけど、もはやその発達に意図的についていかないように自制する時期に来てるかも。


This text is dedicated to the Public Domain(except for quotation). powered by Tumblr.

 

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